彷徨する旅のアーカイブ

旅先や日常で出会った「非日常」の記録

②キリシタンを巡る旅2023・ 鹿児島【島津とキリシタン編】

伊集院から鹿児島市内へ。真っ先に向かったのは、歴代の島津藩主が眠っている墓所でした。

CONTENS

福昌寺跡(鹿児島島津家墓所)

福昌寺跡は、1394(応永元)年に島津家第7代島津元久によって創建された島津家の菩提寺。第6代から28代島津斉彬までの当主とその家族、歴代住職などが眠っています。最盛期には1500名もの僧がいたといわれる南九州最大のお寺だったのですが、こちらも例に漏れず1869(明治2)年の廃仏毀釈により廃寺に・・・。戦後、敷地内には玉竜高校が建てられ、その裏手に島津家をはじめとするお墓が並んでいます。つまり、校舎の窓からは常にお墓が見えているということですね・・・。学校の七不思議とかに島津家にまつわるものとかあったりして!聞いてみたい・・・。

玉龍高校横のゆるやかな坂を登っていくと、案内板が見えてきました。

左の建物が玉龍高校。この裏手に福昌寺跡(墓所)があります

おやおや?案内板には・・・

案内板に書かれている通り、なんと島津家墓地のさらに奥にはキリシタン墓地があるのです・・・!!!このことについてはまた後で詳しく記すとして、まずは島津家にお墓参りしましょうぞ。塀に沿って歩いていくと、まず島津家の家紋である丸十で飾られた扉が現れます。

し、閉まってるね・・・???

早速動揺していると、通りすがりのおじいちゃんが自分で開け閉めして入って良いということを教えてくれました。うぅ、ありがたやー!ちょっとした親切に最大の喜びを感じてしまう今日この頃・・・(しかしすぐにパニくる癖をどうにかしたい)。

開いた・・・!

鳥居をくぐった先の正面奥の墓石には「従一位勲一等公爵島津忠済  田鶴子 墓」と書かれています。

いたるところに丸十

文字から植物が生えていて萌え

こちらには島津氏の分家で玉里島津家第2代当主である忠済さんとその奥さまが眠っているようですね。鳥居から墓石までの両側に、丸十の刻まれた灯籠がずらっと並んでいる光景も壮観でした。

蠱惑的な蟻の行列にどきどきしたよ・・・
(見えずらいけど上から下に縦一列で行進中)

でも、歴代藩主たちのお墓は一体どこに??別の場所に繋がる道も見当たらないので、一旦外に出てみることに・・・。戸惑いながらもさらに奥へと進んでいくと、再び扉が現れました。

中に入ると先ほどとは打って変わって広々とした空間が広がっています。お墓に縁もゆかりもない見ず知らずのわたしなんぞがお邪魔してよいものかしら・・・などと(今さら)思いながらも、無礼のないようお邪魔させていただきますね・・・!!!

どうやらこちらが歴代藩主たちの墓所のようでした。案内図もあって親切〜!!(地図読めない人間だけど)

案内図。藩主やその家族の名前が書かれています

一番有名な島津斉彬さんの墓石拝みたいかもかも・・・なんて思いながら、あまり気にせず気の向くままに敷地内をお散歩してみることにします。

木漏れ日がキラキラして美しい

めんこい唐獅子さま〜

でも、上の墓石の中には頭のない仏様が・・・

お墓って怖いんだけど落ち着くような不思議な魅力があります。昔からお墓参りに行ってるからなのかなー。懐かしい感じがして、お盆の雰囲気や線香のにおいも好きです。

きゃ、きゃきゃわいいいいい!!!

亀かと思ったら、亀そっくりの中国の伝説上の生物「贔屓(ひき)」というらしい。龍が生んだ子供なんだって。「どうぞごひいきに〜」の「贔屓(ひいき)」語源にもなっているそうです。一目で大好きになってしまいました。

化け猫あらわる!??

敷地内を歩いていると閉じられた空間でどこにも進めそうになかったので、再び塀の外に出ることにします。ちなみに敷地内には入れないようになっている場所も所々あってすべてのお墓を見ることはできず(たぶん劣化が激しくて危険なのだと思う)。地図をちゃんと見てないからなんだけど、島津斉彬さんのお墓の場所もよくわからなくて結局辿り着けなかったよね・・・。

さて、再び壁沿いを進んでいくと、ある墓石が目に飛び込んできました。

ね、ねねねねこちゃーーーーーーん!!!!!

巨大な化猫(?)と中国人ぽい人が戦っている(?)姿が彫られているではありませんか・・・!!小さいながらもなんて躍動感のある動き・・・。一体どなたのお墓なのでしょうか。塀の中ではなく外に置かれていました。島津家に縁のある人なのかなぁ??気になる・・・。けど調べる知識も術もないので可愛い猫ちゃん!の話はここまでにしましょうね。

琉球の文字が刻まれたお墓もありました

今回の目的は鹿児島キリシタンを巡る旅。忘れてはぁーいけません。斉彬さんのお墓を拝むことはできなかったけれど、わたしが一番お会いしたいのはザビエルさんが謁見した15代当主の貴久さんなのよ・・・!!

貴久さんのお墓

キリシタン縁の地を巡る旅をしていることや、先ほど伊集院のお城に行ってきましたよーなどと報告したりしなかったり・・・。さて、挨拶もすんだことですし、一番の目的であるキリシタン墓地へと向かいましょう!

古い墓地だからおどろおどろしさを感じそうですが、なんせお隣は高校。墓地近くでは吹奏楽の練習をしている学生たちもいてとっても賑やか。青春の眩しさも感じて甘酸っぱい気持ちにもなりました。ちなみに年上の知人の話によると、昔はこの墓地が学生たちのデートスポットだったらしいぞ!(今の若者もそうなのかはわかりません)

校舎と灯籠

高校と福昌寺跡の塀の間の道をどんどん進み、突き当たりを右に曲がると階段が現れました。

ここを登っていくらしい

石にみっちり苔と草。すき

階段を登っていくと、不思議な形のこれまた古そうなお墓がありました。周りをとり囲む植物もとてもよい。

「慰霊堂」の文字

ザビエルと親交を深めた忍室

どんどん登っていくと、右手に福昌寺歴代の住職たちが眠る墓所が現れました。

とても・・・いい

実は、ここにザビエルとっっっても縁の深い人物のお墓があるのです。それがこちらの第15代住職忍室(にんしつ)さん。ザビエルは鹿児島で何人かの知的レベルの高いお坊さんと知り合いましたが、忍室とは特に親しく、宗教的な問答を交わし合ったそうです。

ニンニン!(怒られるよ・・・)

忍室和尚の墓石よりさらに奥へと進んでいきます。

門のアーチがよき

菅神廟

一番奥には細い階段があり、その先の岩壁に神像のようなお姿が・・・。

瞼の小さな葉っぱがまつ毛みたいでビューティープラス!

階段横には「菅神廟」の立札が掲げられていました。調べてみると菅原道真を祀ったもので、よーくみると腕には梅の花を持っています!この菅神廟は福昌寺ができた時からあるというからすごい。小さな葉っぱが身を包んでいる姿もとても好きでした。

キリシタン墓地

ここからUターンして先ほどの階段へと戻り、さらに上へと登っていきます。

いい運動になる!

そしてついにたどり着きました!こちらがキリシタン墓地です。

真っ白な百合の花が

鹿児島のキリシタンのお墓なのかと思いきや、なんとこちらで眠っているのは長崎の浦上地区から流されてきたキリシタンたち。

手前味噌ではありますが、今年の2月に浦上天主堂を訪れた際の記事から引用させていただきます(わかりやすくまとめてくれてありがとう少し前のわたし!)。

幕末の開国後、1865年(慶応元年)に、当時外国人の居住地であった南山手地区(旧グラバー邸を初めとする歴史的建造物が多く存在する観光名所)に、フランス人専用として日本最古の教会である大浦天主堂が建てられます。翌年、そこを訪れたのが浦上地区の十数名の潜伏キリシタンたち。信徒たちは教会の神父に自分たちがキリスト教徒であることを秘密裏に告白し、弾圧によって日本に信徒がいなくなったと考えていたヨーロッパの人々に強い衝撃を与えます(「信徒発見」)。いまだ禁教令下にあった日本。この「信徒発見」が、浦上の信徒たちへの最大の迫害となる「浦上四番崩れ」に繋がっていきます。1868(明治元)年には、浦上のほぼ全村民約3,400人の流罪が決定。全国各地に流され拷問を受け、約660人が殉教したとされています。

以下ブログより抜粋▼▼▼

この「浦上四番崩れ」によって、浦上地区のキリシタンたちは改宗させるために他藩に預けられます。鹿児島に送られたのは375名。彼らは廃寺だった福昌寺に収容され、1873(明治6)年に禁教令が撤廃されて浦上へと戻るまでの間に58名が病死しました。ただ、薩摩藩では棄教を勧められはしたものの拷問などは行われず、待遇はよかったそうです。それがせめてもの救いですね・・・。1905(明治38)年に、ラゲ神父が散在していた墓をこの場所に集めて立派な記念墓碑を造ったのだそうです。

なんと書いてあるのかはわかりませんが、側面には美しい異国の文字が刻まれています

わたし以外の観光客なんて来るはずはないと思っていたらなんと!日本人ガイドに連れられてやってきたフランス人(おそらく)観光客の姿が・・・!!!派手な観光地でもないこのような墓地に・・・。日本のキリシタン弾圧についてはもしかしたらキリスト教圏の海外の人たちの方が関心を持っているのかもしれませんね。

さらに上に登っていくとグラウンドがあるようで、ランニングルートにもなっているのか部活動っぽい野球少年たちの駆け上っていく姿も見られました。

そのおかげでお墓だけどやっぱりそんなに怖くなくて助かった

これにて福昌寺跡ぶらぶらはおわり。ザビエルに日本初のキリスト教布教を許した島津貴久のお墓や、ザビエルと親しかった忍室和尚のお墓、キリシタン墓地という日本のキリシタンの歴史にとって大事な場所を訪れることができて良かったし、その他にも見所が満載でとても好きなお墓になりました(自分でも「お墓が好き」ってどういうことじゃいって思うけど)。福昌寺跡、おすすめです。

階段をてくてく降りて帰りましょう

鹿児島県歴史・美術センター黎明館

お次に向かったのは黎明館。こちらには鹿児島の民俗芸能関係の展示目的で行ったのですが、キリシタン関係の展示もいくつかあったのでここで紹介したいと思います(撮影オッケーありがたや〜)。

入口に甲冑着たおいちゃんがいたぞ!

まずは今回のキリシタンを巡る旅のキーマンであるザビエルさんの絵(のレプリカ)。

ザビエルといったらこの絵だよね!

宗門手札内改帳留

一番興味深かったのが島津斉興が所持していたと思われるこちらの「西洋宗旨の図」。興味本位で持っていたのか、キリスト教に心を寄せていたのか・・・。

キャプションから以下抜粋▼▼▼

包紙に「文久二年戌十二月六日封 玉里御残り品之内 猥リニ他見許ス可ラス」とあり、中には『旧約聖書』に登場するアダムとイブを描いた絵などが保管されている。安政6(1859)年に島津斉興が亡くなった後、文久2(1862)年に斉興が晩年住んだ玉里邸での遺品整理の際に発見されたが、キリスト教に関するものだったため、他見を禁じたと考えられる。

アダムとイブ

キリスト教関連ではありませんが、他にも海外に関する興味深い品々が展示されていて胸が躍ったよ!!

こちらも斉興が所持していたと考えられている仮面!たまらんぜよ!!

そして呪符・・・!!!

体に「カラトン」や「パルムルストン」の文字が書かれています。イギリスやアメリカの艦船が琉球や日本に接近するのを斉興は呪符で米英撃退を図ったものだそうです。

呪符だけど絵がゆるかわ〜!!

この他にも色々とおもしろいものが展示されていたので、興味のある方はぜひ訪れてみてください。もちろん民俗芸能コーナーもよかったよ!!

休憩はライムライト

さてさて、大好きな喫茶店ライムライトで喉の渇きを潤しまして、ザビエルさん本人に会うことができる場所(!?)へと行って、今回の「キリシタンを巡る旅」のラストを飾ることといたしましょう。

一番行っている喫茶店かもしれない。写真見ているだけで飲みたくなる!

【参考文献・サイト】『概説 キリシタン史』浅見雅一(慶応義塾大学出版会)、『日本キリシタン殉教史 片岡与吉全集』片岡与吉(智書房)

どうぞご贔屓(ひいき)に…その語源は”鼻息の荒い竜の子”だった?(Japaaan)

【使用カメラ】digital:FUJIFILM X-T3、SIGMA dp3 quattro、iPhone SE2

 ③キリシタンを巡る旅 2023・鹿児島へつづく▼▼▼