彷徨する旅のアーカイブ

旅先や日常で出会った「非日常」の記録

⑥竹田キリシタンを巡る旅【稲荷神社とキリシタン洞窟礼拝堂】

歴史が刻まれた細道を無事脱出できたのは16時過ぎ。暗くなるにはまだ時間があります。宿に戻る前に、もう少しだけキリシタンの痕跡を巡ることにします。

山茶花がぽてぽてと落下する坂道をくだる

CONTENTS

九戸稲荷

坂道を降りトンネルを抜けた先にそれはありました。

小さな階段を登ります

岩壁が五角形にくり抜かれた洞窟に祀られている久戸稲荷。

植物の葉や木の根で覆われています

土地の所有者によると、この洞窟が稲荷神社になったのはほんの十数年前とのこと。その前は何に使用されていたのかは不明らしいです。五角形洞窟頭上にある小さな窪みには、小さな十字架がはめ込まれています。

白い十字架

十字架自体は比較的最近取り付けられたもののようですが、この稲荷神社の洞窟も本来はキリシタンの礼拝洞窟として使用されていたのではないかと言われています。

実は、竹田市には同じような稲荷神社や用途不明の洞窟がとても多く、防空壕だったとも言われますが洞窟自体は戦前に作られたもの。なんとその数は城下町内だけでも軽く100を超えるそうです。

INARI(INRI)=稲荷

竹田に稲荷神社が出来始めたのは、禁教令が発令された直後から。キリストの磔刑で十字架の上に掲げられた罪状書きの「IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM(ラテン語)」(「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」の意)の頭文字であるINRI。それにAを加えて「INARI=稲荷」とし、稲荷神社を隠れ蓑にして潜伏キリシタンたちは信仰を続けていたのではないか・・・。そう地元では伝えられているそうです。

鹿児島の某教会のキリスト磔の絵。頭上には「INRI」の文字(竹田とはまったく関係ないけど自分で撮った写真でこれくらいしかなかった・・・)

禁教令から5年後の元和3(1617)年に外国人宣教師によって書かれた手紙には、竹田地方では宣教師たちが山中の洞窟を転々としながら布教活動を行う様子が綴られているそうです。この九戸稲荷その洞窟のひとつだった可能性があると思うと震えます・・・!

九戸谷旧隧道

竹田は阿蘇山の噴火によって堆積した溶結凝灰岩の上に形成された町。溶結凝灰岩は比較的柔らかく加工しやすいため、竹田では最先端の石工技術が発展しました。カマボコ町と言われるほどトンネルが多いことや、周辺に磨崖仏が多いことにも納得です。

九戸稲荷のすぐ横にも、明治初期に掘られた隧道跡が残っていました。

草が茂っていてスムーズに前に進めない・・・。

f:id:salomery:20230622102528j:image

近づけてここまで。中に入る勇気は出ませんでした・・・(いや、それが正解。たぶん入っちゃだめ)

解説板

幕藩時代の竹田は、岡城と連なる断崖に囲まれており、さながら天然の要塞。町に入るには稲葉川沿いの細道と、道を横切る厳しい坂道を利用するしかありませんでした。

明治になって近代産業化のために多量の物資を運搬することが必要になり、数年間のうちに12箇所の隧道が掘られます。その中で唯一残る九戸谷隧道は、ツルハシとノミと火薬によって掘られた明治初期の掘削技術を知ることができる貴重な隧道のようです。(解説板より要約)

中の様子は真っ暗で、遠目ではその掘り跡を実際に見たり触ってみることはできませんでした。みみずトンネルですら古いと思ったのに、竹田に残る最も古い手掘りのトンネルに偶然遭遇することができてよかったです。

キリシタン洞窟礼拝堂(殿町洞窟礼拝堂)

先ほど訪れた九戸稲荷は、禁教時代に礼拝堂であったと証明されているわけではありません。ですが、これから訪れるのは正真正銘のキリシタン洞窟礼拝堂。武家屋敷通りの裏山にあり、作られた正確な年代は不明ですが、江戸時代の初め頃には存在していたと思われます。

近くには稲荷神社もあります

看板に案内されるまま奥へ奥へと進むと、木々に囲まれた岩壁に掘られた五角形の洞窟が見えました。この洞窟が発見されたのは昭和28年頃。当時は人が近づけないほど竹が密生していたそうです。

礼拝堂へと続く階段

中央の扉からは宣教師が入り、左右は信者が入る扉で男女別れていたとのこと

中に入ることはできませんが、洞窟内には祭壇があり、昭和30年代までは金色に輝いていたそうです。その上部には十字架が浮き彫りにされ、祭壇にはマリア像が置かれていたと伝えられています。

『ミステリアス!竹田キリシタン』(発行:竹田市)より

解説板

岡藩の家老である古田重治が所有した土地ともいわれるこのキリシタン洞窟礼拝堂には、禁教下の元和年間(1617〜1620年頃の間)に外国人宣教師が隠れ住んでいたそうです。

三つの特徴

殿町洞窟礼拝堂には三つの特徴があります。

①祭壇をもつ五角形洞窟

②集会所のような大人数を収容できる洞窟を併設

右には大きな洞窟。残念ながら立入禁止

③儀式(洗礼)に使用される湧き水がある

礼拝堂の下の方に湧き水がありました

美しい植物

この特徴の三つを兼ね備えた他の五角形洞窟も残されているそうです。

遊歩道

この場所にいるときは全くわからなかったのですが、ブログを書くにあたって写真や地図を見返していると重大なことに気付いてしまいました・・・。

よーーーーく見てください。上!上の方・・・!!!

!!!!!

もしかしてもしかしなくても!

ついさっきまでわたしが歩いていた道ですよね・・・???

竹林に囲まれた荒れ果てた道

もうびっくり!まさか自分が洞窟礼拝堂の真上を歩いていただなんて・・・。そういえば遊歩道の地図を見たときに不思議に思ったのですよ。

遊歩道の真ん中に「キリシタン礼拝堂」の絵と文字が書かれていますが、通ってきた道にはどう見ても礼拝堂はありそうになくて一体なんだろうと思っていたのです。まさか下にあるという意味だったとは・・・。

今度遊歩道を歩く時は礼拝堂を意識して歩くつもりです。下を覗いたら何かしら見えたりするのかしら。礼拝堂からも歩く人を確認することができるのかも知りたい!体が分裂すればいいのに・・・な・・・・(ひとり旅人の悩み)。

最後に

不思議なことに、当時1万5千人以上のキリシタンがいたともいわれる竹田の城下町に教会が建てられたという記録は残っていないそうです。石工技術が発達した竹田では、教会の代わりに洞窟礼拝堂が昔から多く作られていたから、教会をそれほど重要視していなかったのではないか?ちょっとだけそんな風に思いましたが、真相は謎のままです。

時計を見るとちょうど17時をまわった頃。今日はこの辺にしといてやるぜ。雨予報だったにも関わらず、幸運なことに傘をさすこともなく乗り切ることができました。ちょっと降られちゃったけどね!

■参考文献・サイト

『ミステリアス!竹田キリシタン』(発行:竹田市)

大分県竹田市の文化財『キリシタン洞窟礼拝堂』。まちで大切にされていた隠れキリシタンの遺構

【使用カメラ】digital:FUJIFILM X-T3、SIGMA dp3 quattro、iPhone SE2

⑦竹田キリシタンを巡る旅へとつづく▶︎▶︎▶︎