去年の怒涛の旅人生活から一転・・・1月のキャンプ以来どこにも・・・どこにも行ってないよ・・・・・(旅の資金がつきた)。
焦燥感からいてもたってもいられず、これが最後!最後だから・・・!!!と、自分を甘やかし高速バスに飛び乗ったのは2月はじめのことでした。
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長崎へ
モノクロ写真の自家現像を始めたこともあり、写真を撮りたい気持ちがふくれあがっていました(そんなわけで、へたっぴな自家現像モノクロ写真見てやってください)。向かった先はちょうどランタンフェスティバル期間中の長崎。
ランタンフェスティバルに行きいというよりも(それはオマケのようなもの)、ただ長崎をぶらぶらと歩いて写真を撮りたいという気持ちがありました。長崎って何気ない風景がほんと絵になるんだよね。自分にとって写欲が刺激される土地のひとつだったりします。
平和公園
高速バス九州号に約2時半ほど揺られ(もちろん一番安い交通手段で!)、下車したのは「平和公園」前。日本人であればおそらく誰でも一度は写真や映像で目にしたことがある像がここにあります。
平和祈念像
ずっと九州に住んでいながら実は訪れたのは初めて・・・!!!(のはず)
実際は小学生とかの修学旅行で行ってる可能性あり。ただ、ほんとに子供の頃の記憶ほぼないのよ・・・なんも考えないで生きてたんだろね・・・・・
長崎刑務所浦上刑務支所跡
この公園にはもともと刑務所があったということも初めて知りました。平和祈念像の前には、原爆で破壊された建物の一部が現在でも残されています。
爆心地より北へ最短約100mの場所にあり、爆心地にもっとも近い公共の建物だったそうです(解説板より)。
小高い丘の上にある公園を抜けると、浦上天主堂を遠望できる場所に出ました。
階段を降りて向かった先は、その浦上天主堂・・・ではなく、天主堂前にあるフルーツイワナガさん。
フルーツいわなが
福岡を発つ前から朝パフェするって決めてたんだ・・・!!!
が、しかし、着いてみると目の前に現れたのは人、人、人・・・!!!!!オープンしてまだ数分しかたっていないというのに、なんと外まで溢れていました・・・。
並ぶの大嫌いなんだけど(なんならちょっと小馬鹿にしてる)、もう並ぶ!並んじゃうよ!!!(小馬鹿にしていいよ!)
というわけで、約40分(!)ほど並んでたどり着いたのがこちらの高級ぱっふぇです。
きゃ、きゃわゆいいいいい!!!
いちごたっぷりで大変おいしゅうございました。いちごジュースも酸っぱ甘で美味しかったなぁー!
イワナガさんは果物屋さん。カフェ使用以外のお客さんも並んでいて、しかもなんと丁度コロナ禍に突入して以来の「いちごフェア」の開催初日だったらしい!(店頭にはたくさんの苺が並び、デザート類もいつもより安くなっていました)土曜日でなおかつランタンフェスも重なっていたこともあり、このような長蛇の列になったのではないかと推測・・・。
日帰りだというのにしょっぱなからだいぶ時間をロスってしまったけれど胃袋は大満足!!いよいよ目の前の浦上天主堂へと向かいます。
浦上天主堂
と、その前に、少しだけ(と言いつつもちょーっと長くなってしまった)浦上地区のキリシタンの歴史について触れておこうと思います。活字が苦手な方はすっとばして旧浦上天主堂の原爆遺跡へとお進みくださいませ!
浦上地区の潜伏キリシタンと旧浦上天主堂
1571年、ポルトガルとの貿易港として開港されて以来、長崎はキリスト教の中心として栄えていました。1587(天正15)年、豊臣秀吉が伴天連(バテレン)追放令を発布。1597(慶長7)年、京都や大阪で宣教師を含む日本人信徒26名が捕まり、長崎の西坂で十字架にかけられて処刑されます(日本二十六聖人)。あの陰陽師で有名な一条戻り橋で耳を削ぎ落とされたらしい・・・。
1612(慶長17)年及び、翌1613(慶長18)年の江戸幕府による禁教令で、キリシタンへの弾圧が本格化。それでも信徒たちは表面上は仏教徒を装い、密かに信仰を続けていました(いわゆる「潜伏キリシタン」)。
1637年(寛永14)には、天草四郎率いる「島原の乱」が起きるも一揆は失敗に終わり、幕府軍により根絶やしにされます。1639(寛永16)年、幕府がポルトガル船の入港を禁止すると、日本は長い鎖国の時代に突入。
幕末の開国後、1865年(慶応元年)に、当時外国人の居住地であった南山手地区(旧グラバー邸を初めとする歴史的建造物が多く存在する観光名所)に、フランス人専用として日本最古の教会である大浦天主堂が建てられます。
翌年、そこを訪れたのが浦上地区の十数名の潜伏キリシタンたち。信徒たちは教会の神父に自分たちがキリスト教徒であることを秘密裏に告白し、弾圧によって日本に信徒がいなくなったと考えていたヨーロッパの人々に強い衝撃を与えます(「信徒発見」)。
いまだ禁教令下にあった日本。この「信徒発見」が、浦上の信徒たちへの最大の迫害となる「浦上四番崩れ」に繋がっていきます。怪しんだ奉公所がスパイを送り込んで発覚したらしい・・・。
1868(明治元)年には、浦上のほぼ全村民約3,400人の流罪が決定。全国各地に流され拷問を受け、約660人が殉教したとされています。
その流刑地の一つである島根県津和野町に「乙女峠」と呼ばれる信徒たちが幽閉・拷問された場所があります。2019年の夏、とある民俗芸能を見に津和野を訪れた際に、この地を訪れたことがあったのですが、まさか浦上から送られてきた信徒たちに縁のある場所だったとは・・・。良い機会なので、津和野旅の記録もおいおいまとめようと思います。
1873(明治6)年、世論に屈して明治政府は禁教令を撤廃。「旅」(信徒たちは配流をそう呼んだ)に出ていた浦上の信徒たちも戻ってきます。食べるものにも困っていた信徒たちが一番に欲しがったのが祈りの場である教会でした。
1880(明治13)年、約250年もの間、浦上村民の信仰の取り締まりを行い、踏絵を強制された場所でもある旧庄屋屋敷を買い取り、仮聖堂として使用。1895(明治28)年には「旅」から戻ってきた信徒たちを中心に旧浦上天主堂の建設が始まります。
資金が足りず工事を中断しながらも1915(大正4)年に完成。さらに1925(大正14)年には、長崎県を中心に多くのカトリック教会堂を手掛けた鉄川与助により正面の双塔が建設され、ロマネスク様式では東洋一の大聖堂がついに完成します。双塔にはフランス製のアンジェラスの鐘がつけられました。
しかし、信徒たちの努力の末に建てられた旧浦上天主堂は、1945(昭和20)年の原爆により一瞬にして失われてしまいます・・・。
浦上地区の信徒約12,000人のうち約8,500人もの命が奪われました。禁教令が解かれやっと苦難から解放されたにも関わらず、長い年月をかけて作られた教会はたったの30年でこんな最悪の形で消失してしまうなんて・・・残酷すぎる・・・。
それでも被爆後、翌年には木造の仮聖堂が作られるのだから信仰心というものはすごい・・・。(その信仰心が一方では戦争を引き起こしたりもするから恐ろしくもある)
以上の内容は、以下サイトをメインにまとめさせていただきました。読みながらその弾圧の様子に思わず泣いてしまったのは年のせいかな・・・。
また、以下サイトでは、長崎〜天草地方のキリシタンの歴史について分かりやすくまとめられていてとても面白かったので、興味のある方はぜひ。
旧浦上天主堂の原爆遺跡
さて、お勉強したところで、やーっと浦上天主堂へと足を踏み入れますよ!
現在の建物は1959(昭和34)年に再建された建物ですが、外壁には被爆した旧天主堂に設置されていた石像の一部が使用されています(ちゃんと写真撮ってなかったよ・・・)。
天主堂前の石像
天主堂前の一角にも石像たちが設置されていて、ここが個人的にとっっってもよかった・・・!!!
原爆遺物展示室
浦上天主堂の敷地内には原爆遺物展示室があり無料で見ることができました。原爆によってぐにゃりと曲がった杯や溶けて幾重にも重なったステンドグラス、たくさんの石像たち・・・。
旧浦上天主堂の石像はなんと!天草の石仏師が彫ったものなのね・・・!!印象的だったのが通常の教会には設置されないであろう神社の狛犬のような姿の獅子がいること。石仏師が作ったからこのような姿になったのだろうか。とても興味深いです。
被爆マリア
浦上天主堂は「被爆マリア」の存在でも知られています。
天主堂の祭壇に設置されているらしいけれど、近くには入れなかったので、ちゃんとどこにいらっしゃるのか認識しないまま外に出てしまったよ・・・。近くで見れるように教会内にはレプリカが置いてありました。
ずっと浦上で保存されていたわけでなく、原爆投下後は北海道のトラピスト修道院で保存されていたということを初めて知った!浦上出身の神父が瓦礫の山から救出して持ち帰って大切に保存していたらしい。
以下のサイトには、その神父からの手紙が掲載されていて、当時の発見の様子を知ることができます。
The Madonna of Nagasaki: 聖母像の首
まるで運命のような話・・・。神父さまに失礼な話かもだけど、浦上天主堂のマリアさまに恋していたんじゃないかな・・・。
アンジェラスの鐘
爆心地から0.5kmに位置していた浦上天主堂は一部の堂壁を残して全壊しました。
以下サイトには、浦上天主堂の原爆前後の写真がたくさん載っていてとてもよかったです!
長崎原爆と浦上天主堂 — Google Arts & Culture
双塔の鐘楼は、南側のものが天主堂内に落下。北側のものは天主堂の北側に落下し、崖下を流れる小川まで滑落。北側の鐘楼は、1950年に河川改修により石垣の中に一旦埋められるも1971(昭和46)年に発掘され、現在でもその姿を見ることができます。
旧浦上天主堂の双塔の鐘楼にはそれぞれ大きさの違う大小の鐘がついていて、交差するように鳴り響き、浦上の町に時を告げていたそうです。
川まで吹き飛んだ鐘楼についていた小さい鐘は、敷地内の原爆遺物展示館に展示されています。
小さい鐘の方は破壊されてしまったけれど、なんと大きい鐘の方は健在!!浦上天主堂の右手の鐘楼へと戻され、今でも1日に3回その美しい音色を響かせています。わたしも運良くその音色を聴くことができました。その時は聴けてラッキーくらいに思ってたけど、今回ブログを書くにあたってキリシタン弾圧の歴史や原爆を耐え抜いた鐘であることを知った今では重みがぜんぜん違う・・・。もう一度ちゃんとその音色を生で聴きたいです。
たった10秒ほどの短い動画だけど鐘が鳴り響く天主堂を撮ったので、どうぞご覧ください。ほんと一瞬で終わっちゃうけど・・・
浦上天主堂の鐘楼について調べていたら、またまた興味深いページを見つけたので載せておきます。
ナガジン!|特集:発見!長崎の歩き方 「宗教を越えて鳴り響く“長崎の鐘”」
以下に抜粋。
教会の鐘の音が鳴り響く長崎の町は、禁教令とともに一変。建ち並ぶ教会堂は破壊され、その跡地の多くには寺社が建てられていった。本蓮寺(ほんれんじ)や大音寺(だいおんじ)など、初期に建立された長崎の寺院はすべて教会堂跡に建立されている。さらに、寛永年間(1624~44)、それはまるで旧市街である内町を取り囲むように二つの列となって神社仏閣が建てられた。元和7年(1621)、ミゼリコルディア本部跡に建てられたのが、現在、鍛冶屋町にある大音寺。この寺に、どの教会堂のものかは定かではないが、破却された教会堂の鐘のひとつが与えられた。おそらくはベル型の鐘であったことだろう。しかし、島原の乱後、この鐘は仏寺の鐘の本来の形に鋳造しなおされた。残念ながら第二次世界大戦中に供出され、現存してはいない。たとえキリスト教の鐘として十字架を刻印して鋳造されたとしても、鋳物としての鐘は重んじられ、一度、寺院の鐘に鋳造しなおされると、その鐘はそのまま存続する可能性が高かったという。現在、寺院に設置された梵鐘のなかにも聖鐘から梵鐘へと改鋳されたものがあるのかもしれない。
長崎のお寺の鐘の中に、もしかしたら元々は教会の鐘があるかもしれないだなんて・・・!!確かめる術はありませんが、このことを知っているだけで長崎のお寺を見る目が変わります。ちゃんと勉強してから観光することも大事だなと今更ながら思うのであった。
いやはやしかし、付け焼き刃の知識では何も語ることができないとここにきて気付く。頭パンク気味なので、今回はここらへんにして・・・。ネットでの調べ物ではなく、ちゃんと専門書の一冊でも読んでみたいと思います(そうして積読が増えていくのだ)。
最後に
中学時代、学校の先生が平和教育に熱心で、文化祭の時に舞台で長崎の原爆を体験した人の手記を朗読したことを今でも覚えています(正確ではないけれど、その時の台詞も言えるほど)。
今回初めて浦上天主堂や平和公園を訪れることで、原爆だけではなくキリシタン弾圧の歴史についてもほんのさわりだけど勉強する機会を得たことは本当によかったです。
旧浦上天主堂も、広島の原爆ドームのようにそのままの形で残しておけばよかったのにとは思うけれど、信徒にしたら元に戻したい気持ちの方が強いだろうし、迫害の地の象徴でもある場所に再建したいという気持ちもとてもよくわかる。外野がどうこう言えることじゃないんだよね。観光のために信仰をしてるわけではないのだし。保存ではなく再建を決定した当時の市長の思惑については、wikiで読む限り譲れない思想というものはなさそうだけど・・・。
長崎の原爆遺跡は他にも色々とあるようなので、また次回訪れたいと思います。爆心地の公園には、旧浦上天主堂の外壁の一部が移設されているようなのでぜひ見に行きたい。
原爆、キリシタン弾圧と、内容が内容だけで軽く扱うことができず、旅行記ブログにしてはちょっと重い内容になってしまいました。もう2度とこのようなことが起きないことを願いたい・・・ね・・・。
最後まで読んでいただきありがとうございました!次回はもっと軽めに・・・できる気がしない・・・・・。
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長崎カメラさんぽ2023②につづく▶︎▶︎▶︎