残念ながら滞在中の2日間は雨予報・・・。午後からお天気が崩れる予定です。雨が降り出す前に・・・急いで出発・・・っ!!
と、その前に。竹田市のキリシタンついてちょっとだけ解説。文章ばかりで眠くなる・・・という方はすっとばしてこちらへどうぞ。
CONTENS
豊後のキリシタン
現在の竹田市を含む大分県の大部分を占めていた豊後国のキリシタンの歴史は、キリシタン大名として有名な大友宗麟(義鎮)が、1551年にフランシスコ・ザビエルを豊後府内(現在の大分市)に招待したことに始まります。学生時代、大分に住んでたのにちっとも知らなかったよ〜。今思えば「府内」という名前の通りにもよく行ってた。
府内は初期のキリスト教布教において中心的な場所になりますが、豊後国を収める長である宗麟がキリシタンでなかったため(実際に洗礼を受けたのはザビエルに会ってから27年も後のこと)、信者は思ったように増えなかったようです。
そんな中、府内よりも先に豊後で初めて教会が建てられたのが、なんと今回の旅の舞台である竹田市。直入町と久住町の境にあった朽網(くたみ)地方でした。宣教師ルイス・フロイスが書き残した『日本史』には、その教会の美しさを絶賛する様子が書かれています。キリシタンに関係なくこの時代の日本の歴史を調べようとすると、たびたび出てくる『フロイス日本史』。やはりいつか読まねばな・・・。
熱心なキリシタンであった領主、朽網氏(洗礼名ルカス)によって、朽網地方は日本八大布教地にまで発展(朽網の他に、府内、平戸、博多、鹿児島、山口、京都、堺と有名な地域ばかり!)。この地には現在でも貴重なキリシタン遺跡が残されています(今回は訪問叶わず。また次の機会に・・・)。
朽網氏の失脚により、岡領内のキリスト教信仰は志賀氏の岡城がある竹田地方へと移ります。同じく熱心なキリシタンであった志賀氏が岡領を去った後、藩主なった中川氏もキリスト教には寛大であったようです。
そして、江戸幕府の禁教令により本格的なキリシタン弾圧が始まり、長い苦難の時代が訪れます。
豊後岡藩は「隠しキリシタン」だった?
竹田市内には数々のキリシタン遺物、遺跡が数多く残された土地。それは藩ぐるみでキリシタンを匿った「隠れキリシタン」ならぬ「隠しキリシタン」の里であったからとも言われています。
ただ、史料が残されていないため真実は定かではありません。なぜ史料がないのかというと、西郷隆盛の西南戦争中の戦い(1877年の茶屋の辻の戦い)の際、竹田の城下町のほとんどが焼失してしまったそうなんですね・・・。また、禁教下に潜伏して信仰するという性質上、キリシタンの証拠となるようなものを残すこと自体が難しいよね(カクレキリシタンの「オラショ」も口伝)。見つかったら酷い拷問の末の死が待っているのだから・・・。
※竹田キリシタンの歴史について参考にしたサイト、書籍等についてはブログの最後あたりでまとめますのでお待ちを・・・。
さて、今年の2月に長崎市を訪れ、日本二十六聖人記念館を訪れたことをきっかけに、今まで以上にキリシタンについて知りたい欲求が高まったことはブログを読んでいただいた方はご存知でしょう。
近場でどこか!どこかキリシタン縁の場所がないものか・・・!!(遠いと資金不足で行けない・・・)
ふと竹田の存在を思い出し、いてもたってもいられず今回旅立つことになったというわけです。
では、仕切り直しまして・・・
キリシタンを巡る旅、いよいよスタートです・・・!!!
自転車旅のはじまり
意気込んで出発したものの、自転車をこぎはじめてもすぐにストップ!何度もストップ!!なぜなら撮りたいものが次々と目の前に現れて前に進めないのだ・・・。
目的の場所まではおそらく自転車で1時間ほど。念の為30分余裕をもってスケジュールを組んでいました。が、まさかあんなことになろうとは・・・。
写真を撮りながらどんどん自転車を走らせます。坂でもへっちゃらよ!(電動自転車さまさま)
周りに見えるのは川と山ばかり・・・。と思ったら途中で鮮やかな赤い花の咲く商店を発見。
道中では様々な石像や碑石などに出会います。
「水恩碑」と書かれた石碑も見かけました。
昨日からずっと感じていることですが、竹田市ではいたるところに水が流れています。実は訪れる前は、キリシタン弾圧の暗い歴史と、四方を山に囲まれた土地という印象から、なんとなく閉鎖的で陰鬱な印象を持っていたのですが(失礼)、とてもすがすがしい爽やかな土地であると感じました。
あちこちで山藤が咲いているのも嬉しかった!優雅な藤棚も大好きだけど、素朴な山藤もとてもとても好きなのです。
藤の待合所
電動自転車さまさまの力を借りてひたすら漕いでいると、とんでもなく素敵な光景が目に飛び込んできました。
ひょえーーーーーーー!!遠目でもわかる失禁寸前の素晴らしさ!!!
我、昇天なり・・・!!!!!
興奮しすぎて何度も何度もシャッターを押してしまいました。なのでたくさん写真載せてます。許してね。
向かいにはバスの停留所があるのでどうやらここは待合所(元々は民家とかだったのを待合所として利用したのかな?)。
こんな素敵な待合所、全国を探してもきっとここにしかないよ・・・!!もうボロボロで山藤に侵食されつつあります。この季節でないと見ることができなかった光景に出会えてとても幸せです。
藤の花トンネル
名残惜しさを覚えつつ藤の待合所を後にすると、今度はトンネルが見えてきました。
嬉しいことに、ここにも藤の花が・・・!!!
横を通り過ぎるとふわっと鼻の奥に甘い藤の香りが・・・(幸せ絶頂)心なしかトンネルの中も藤の香りで満たされている気がしました。
でも!やっぱり!!
狭くて真っ暗なトンネルをひとりで通るの怖いよぉぉぉーーーーー!!!
振り返ったら手が伸びてくる映像が頭に浮かぶのを振り払いながら走り抜け、トンネル出ても振り返らずに必死で自転車をこぎ続けました・・・(マジ)。
恐ろしき試練を乗り越え(大げさ)、いつの間にか大きな道路から外れ、水が勢いよく流れる橋へと辿り着きます。もうそろそろ目的地近くまで来ているはず・・・
・・・あ!!!
もしかして・・・???
上坂田磨崖神像
やっと着いたー!!!
入口からもうトキメキです・・・。強風が吹いたら倒れてしまいそうな弱々しい鳥居。扁額にはかろうじて「神明社」の文字が見て取れます。鳥居の横には説明書きがありました。
上坂田磨崖神像(かみさかだまがいしんぞう)。「磨崖仏」はよく聞くけれど「磨崖神像」というのは初めて聞いた。どうやら洞窟内には仏ではなく、神像が彫られているようです。解説板にはキリシタンの「キ」の字も出てきませんが、この磨崖神像がキリシタンに関係しているのではないかと言われています。
さて、その真実はさておき、さっそく中へと足を踏み入れましょう!目の前には鬱蒼とした木々に囲まれた細い道が続いています。なんだかとっても怖いけど!怖さよりもワクワクが強すぎてもう瞳孔ひらいちゃうよ・・・!!!
ドキドキしながら山道を進んでいきます。
まるで行手を阻むかのように木々が倒れているところも・・・。日頃から人通りが少なく、整備されていないことが伺えます。
倒れた木の下をくぐり、ひるむことなく人気のない道をどんどん進んでいきます。
曇り空で陽も届かず薄暗い。ちょっと、いやだいぶこわい・・・。だんだん心細くなってきました。
10分ほど歩いてついに現れたのは漆黒の闇。四角くくり抜かれた手彫りの小さな洞窟でした。
洞窟の中にいらっしゃるのは・・・
憤怒の形相の磨崖神像さま・・・!!!
目はキッと釣り上がり、グッと歯を食いしばっています。その体は小さな洞窟内に収まりきれず、いまにも飛び出してきそう・・・!!!
こ、こここここここわい・・・・。
実は洞窟内に入ってまずまっさきに感じたのは恐怖の感情でした。磨崖神像への恐ろしさというよりも、場所の雰囲気にのまれてしまって・・・。
まずは洞窟正面の祠と神像さまたちに手を合わせ、ご挨拶と写真撮影のお願いをすることに・・・(毎度お馴染みのやつ)。
祠の横には顔のない石像もいらっしゃいました。
撮影をしていると、だんだんこの空間に慣れてきたのかいつの間にか恐怖は薄れて平気になっていました(人間は慣れる生き物なのさっ)。
磨崖神像の右横の壁には「嘉永六丑年」(1853年。「丑」は干支かな?)の文字。その頃に製作されたものと思われます。調べたらペリーが来航した年でした。黒船ーーーー!!!
洞窟の左側には石碑が嵌め込まれており、それにはおそらく「文政十二丑年」 (1829年)と刻まれています(違ったらごめん)。他にも文字が書かれてるけど・・・「當所新井○×来禄」・・・???うぅ、おらには読めねぇ・・・。
磨崖神像横に刻まれた1853年の24年前の1829年ということは、先に神明社を祀る場所として洞窟自体が彫られた年代が刻まれているのかなぁ・・・。誰か教えてください・・・
それはさておき、1612(慶長17)年の禁教令から約240年後の1853(嘉永6)年に、こちらの磨崖神像さまが彫られたということですね。
「で?この磨崖神像がキリシタンと一体どう関係が・・・???」
そう疑問に思う方もいるかと思います。
潜伏キリシタン
潜伏キリシタンたちは仏教徒を装いながら、様々なものをキリストやマリアさまに見立てて祈りを捧げていました。その代表的なものとして挙げられるのがマリア観音。
では、ここで再び磨崖神像さまを見てみましょう。
羽!天使!!キ・リ・シ・タ・ン・・・!!!
と、単純にそう思いたくはなりますが、実は日本にも有翼の神様は存在しています(水を差してすまない)。迦楼羅(カルラ)や飯縄権現、秋葉大権現などがそれにあたります。
新小路秋葉山大権現
こちらは鹿児島県姶良市を散策している時に出会った秋葉さま。一目見て「大好き!!」となりました。
真っ赤な炎と羽を携え、足元をよーーーくみるとかわいいお狐ちゃんに乗ってるよ!かわいいいいいいい
秋葉権現は、秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神で、火防の神様として信仰されています。秋葉山に伝説を残す三尺坊という修験者の神格化したものともいわれ、その姿は飯縄権現と同じく白狐に乗り剣と羂索(けんさく)を持った烏天狗の姿で表されるそうです。(秋葉権現 - Wikipedia 飯縄権現 - Wikipediaより)
秋葉権現と飯綱権現、ほんと見分けがつかない・・・。姿は烏天狗だし(烏天狗大好き!!!)。
件の磨崖神像も山岳信仰の影響があるように思えます。
天草のウマンテラさま
実は、数年前に天草の崎津を旅した時に、このような石像に出会いました。
崎津の隣村、今富で信仰されていたというウマンテラさま。現在は﨑津資料館みなと屋に展示されているこのお方も潜伏キリシタンに関係するものと言われています。
解説には、潜伏キリシタンの指導者である「水方(みずかた)」(洗礼を授ける役)が「修験者(山伏)」であったことや、ウマンテラさまが修験道信仰のひとつとされる秋葉信仰に影響を受けている可能性について書かれています。
また、秋葉信仰だけでなく大天使ミカエルの影響もみることができるそうです。
確かに、背中に翼をたずさえ剣を手にし悪魔を踏みつける大天使ミカエルの姿は、同じく翼と剣を手に生き物(邪鬼?)を踏みつけるウマンテラさまの姿と重なります。
天草の崎津に旅した時の旅行記はこちらからどうぞ。
以上のことを踏まえて改めて磨崖神像の姿を見てみると、彫りの深い目鼻立ちや翼は西洋のそれを思わせます。長崎と大分という場所の違いはあれど、同じ禁教時代の日本(さらにいうなら距離の近い九州)。キリシタンたちが磨崖神像に祈りを捧げていたとしてもおかしくないような気がしてきました。
しかし何度も言いますが、史料がないためすべては想像に過ぎません・・・。
ただ、この場所が地域の人々にとって大切にされた信仰の場であったことは事実。キリシタンと無関係であったとしてもその価値は何も変わりません。
この地を実際に訪れ、空気感を肌で感じながら、磨崖神像さまにお会いすることができて本当によかったです。
【使用カメラ】digital:FUJIFILM X-T3、SIGMA dp3 quattro、iPhone SE2
③竹田キリシタンを巡る旅へとつづく▶︎▶︎▶︎